久しぶりの投稿となりました。
この数日何をしていたか?
ヒグマの出没情報の精査や農業被害について精査していました。
あとは、写真を撮影したり。

さて今日は、こんなことを綴っていこうと思います。
「野生動物が野生動物の世界の中で生きている瞬間って美しく尊い」です。

私の撮影に対するスタンスのひとつです。
言葉が通じ合わない野生動物と人間。
自分の勝手な解釈で意思疎通を図ることができたと思うのは嫌だ。
だけど、言葉は通じなくても想いは伝わり合うことがあると思う。

それもエゴなのかもしれないけれど、互いに生命ある生き物。
何かは伝わり合うと思う。
例えば、「撮ってやる!」みたいな殺気だった人が野生動物を探しているとき、そうそう良い出会いをしていないと思う。
もちろん、いると言われている場所を訪れての撮影であれば、撮れるだろうが。
だけど、「良い出会いに恵まれると良いな」なんてふわっとした気持ちであるときは、思わぬ出会いに恵まれやすい気がしなくもない。

もちろんここまでは、人間の身勝手な解釈のお話。

話を戻して、この記事で書きたいことは次に綴ることなのです。

「野生動物が野生動物の世界の中で生きている瞬間って美しく尊い」

これはどういうことか?
好みの問題でもあると思います。

・しっかりとポーズを決めて目線をもらう写真。
・生活の一コマをこっそり切り抜いた写真。

そんな2種類の写真があるとしたら、私が野生動物が野生動物の世界の中で生きている瞬間って美しく尊さを感じるのは、”後者”のような写真ということです。

もちろん、前者のような写真も好きです!
しかし、後者のような写真は、”ありのままの姿”という感じがして、何か人間が野生動物の世界に入り込むことを許されているかのような錯覚になるのです。
そんな錯覚を感じたいと思うのです。

なんぼ”こっそり”と言えど、野生動物は、我々の存在に気がついていると思います。
だけど、”必要以上に気にするものでない”と野生動物が判断すれば、以降、野生動物は私のことを気にする気配を出さず過ごしてくれるのです。

※「気付かれること」が直接悪い行為だとは思っていません。
もちろん、餌付けや騒音などで”悪意をもって気付かせる”ということはNGだと思っています。

そんな写真を撮ろうと心がけた日は。
こんな瞬間に出会えたりするのです。

草むらに潜むキタキツネです。

草などの障害物がなく、綺麗なロケーションで佇む写真は、美しく綺麗ということは誰もがわかります。
しかし、そういうロケーションにしょっちゅういるわけではないのです。
野生動物は人間にやすやすと寄っていくることはないから。

ならば、こんなキタキツネにとっての日常的なシーンとは?
基本は拓けたところにいません。
もちろん拓けた場所にいることもありますが、目立つような場所を基本的には嫌います。
だって人間の気配も濃くなりますから・・・。

心の拠り所ってどんな場所なのでしょう?

キタキツネのみならず小動物の心の拠り所のイメージって?
明るい場所?暗い場所?
広くて開放的な場所?狭くて目につきにくい場所?

必ずしもではないと思いますが「暗くて目につきにくい場所」って感じがしませんか?

繁殖もそんな場所で行われます。
これは、「外敵から目につきにくく、安心できる場所」ということなのでしょう。

理想は「野生動物が心の拠り所で過ごす瞬間を撮る・観察する」ですが、過度にそんな場所を訪れるのは、野生動物にとっての安心を奪う行為となってしまいます。
なので、程良い距離感、野生動物の警戒の度合いなどを常に見ていなければなりません。
野生動物の世界を垣間見るためには、まず観察に観察を重ねるところから始まるのです。

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